あの頃の私は
「止まること」が怖くてたまりませんでした。
子どもが動けない時間は
親にとっても「何もできない時間」だからです。
でも、今振り返ると
あの静かな時間の中にこそ
本当に大切なものが眠っていました。
子どもの声を“聞く”ようになった
あの頃は、言葉よりも表情、沈黙、ため息を
探るようになっていました。
「何も言わない」その奥にある気持ちを
想像することが増えたのです。
不登校は
そんな親子の“会話の形”を変えてくれました。
「普通」に縛られなくなった
まわりと比べてばかりいた私は
不登校をきっかけに
平均や普通という言葉の呪縛から
少しずつ自由になれました。
みんなが同じ道を歩かなくてもいい。
時間の使い方にも、それぞれのリズムがある。
そう思えるようになった時
私はとても息がしやすくなりました。
子どもを「信じる」ということ
本当の意味で“信じる”とは、
相手を思い通りにしようとしないことでした。
子どもが笑えるようになるまでの道のりには、
何度も沈黙と涙がありました。
でも、信じて待つことを繰り返すうちに
子どもは少しずつ、自分の力で歩き出していました。
あの時間がくれたもの
焦りも、不安も、涙も
全部が私の中で信じる気持ちに変わりました。
誰かの痛みにすぐに気づけるようになったのも、
あの時間があったからだと思っています。
いま思うこと
不登校の時間は
何も奪っていませんでした。
むしろ私たち親子に
「本当に大切なものだけを残していった」と感じています。
止まって見えたあの時間こそ
私たちを育ててくれた“贈り物”でした。
そして私は
子どもを信じるという最強の武器まで手に入れたのです。

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